ピアノのおけいこ |
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「ピアノを?私がですか?」 「今日は姫様のピアノのレッスンの日ですから…」 「しかしピアノの先生が、いつもおいでではありませんか」 「急病とかで、今日来られないそうなのです。このままだと姫様はピアノのレッスンをさぼっておしまいになります」 「まあ、それはそうですが…」 「クリフト様、ピアノをお弾きになるのでしょう?」 「それはもうとうに昔のことで、最近は全然…」 「ぜひ姫様のレッスンをお願いします!このまま城を抜け出されてしまっては、私が叱られます!」 侍女はすがるような目で、クリフトを見ている。 「仕方ありません。では、私が参りましょう」 「ありがとうございます!すぐに姫様をお連れしますので!」 クリフトはため息をついた。 弾けないかもしれない、もうかなりピアノから遠ざかっている。 弾けなかったら、姫様はきっとお笑いになるな…アリーナの無邪気な笑顔が浮かぶ。 「なんだ〜、クリフトも弾けないのね!私と同じね!」 さっきより大きなため息が出た。 そうだ、私でなくともいいのだ、サランのシスターに頼もう。いつもオルガンをお弾きだから。 早速サランに、とクリフトは急いだ。 しかし、侍女はそれより素早かった。なんとしてもアリーナを連れて来ようという執念のほうが、クリフトの不安より勝っていたのだ。 もう、廊下の向こう側に、二人の姿が。 「わかった、行くわよ、行くから。ピアノ弾くから。この手を、ね?離して」 アリーナの大きな声が廊下に響く。侍女はその手を離さないようだ。 クリフトは内心、大したものだと思う。 ブライ様や女官長に叱られるかもしれないという思いは、姫様の腕力をもねじ伏せるのだな、と思って、それから苦笑した。 「クリフト様、お連れしました!さあ、姫様、今日はクリフト様とレッスンですよ」 「え…?クリフトと?」 「先生は、今日はお休みですから、クリフト様にお願いしました」 「へーえ…。クリフトが…」 アリーナがまじまじと見るので、クリフトは赤面した。 「及ばずながら、私が今日はレッスンのお相手をさせていただきます」 「そうなんだー。うん、じゃあピアノの部屋に行こう!」 アリーナは、いつものピアノのレッスン日とは違い嬉々として歩き出した。 白いグランドピアノは、美しい輝きを放っている。 一度弾いてみたいとクリフトは思っていたが、それを口には出せず、時折眺めるだけだった。 弾けないかもしれない、と思っていたさっきまでの気持ちは失せて、早く鍵盤に触れたいと思った。 「クリフト、ピアノ弾けるの?初めて知ったわ」 「ずっと昔のことですから、今は弾けるかどうか…。すばらしいピアノですね」 「お母様が大事にされてたの。よく弾いていらしたわ。私、小さい時ね、お母様のピアノをいつも聴いてたの。でも私はピアノ弾くの大嫌い。ちっともうまくならないし。ピアノの練習いやでいやで仕方なかったけど、今日はクリフトが先生だから、別!ね、先生、練習しなくていいでしょう?」 「何をおっしゃるんですか。ちゃんと練習なさって下さい」 「えーっ。そんな無粋なこと言わないで、お茶でもしようよ。せっかくのクリスマスなのに」 「いけません。さあ、ピアノの前にお座り下さい」 「じゃあクリフトから弾いてよ」 「…はい?」 「先生の腕前を知らなくちゃ。だって、いつもの先生とは違うんだから!」 「そうですね…。あの、弾けなくてもお笑いにならないで下さい」 「はいはい」 クリフトはピアノの前に座った。 「あまりピアノ向きの曲ではないかもしれませんが…、私が好きな曲なので…」 流れ出すピアノの音――。 ああ、綺麗! アリーナはすぐにそう思った。 曲も。 鍵盤の上をすべる白くて長い指も。 夕陽に照らされ、白いピアノがオレンジに変わっていくのも。 そして――ピアノを弾くあなたも。 アリーナは泣いていた。 忘れていた。 デジャヴ。 そうだ、昔、クリスマスの日。 この曲をお母様が弾いてくださった。 このピアノで、その時も、白く長い指が鍵盤の上をすべっていて。 あの時も泣いてしまった。 小さかった私は、あまりにお母様が綺麗で、夕陽が綺麗で、この曲が綺麗で。 泣き出した私を、お母様は優しく抱きしめてくださった。 ピアノの音がやんで。 静寂の中、クリフトはアリーナがしゃくりあげているのを見て、心底驚いた。 「姫様?」 「……懐かしかったの……ごめんなさい。クリフトが……あまりにも…綺麗だったから」 「え?」 「…ピアノの音も…。クリフトも…。全部……全部…綺麗過ぎて。涙が……流れて仕方なかったの」 「……そんな」 「…お母様も……昔…この曲を……弾いてくださったわ。…神様を……忘れてはいけませんよって……」 「…………」 「ありがとう、クリフト…。私……忘れて…いたの、ピアノが……こんなに綺麗だった…ことを…」 「…………」 「…いつもピアノのレッスンが……苦になっていたの…。何で…こんなに……つまんないことしなくちゃ…いけないのかって……。…でも今…クリフトの…ピアノを聴いて……。こんなにも…綺麗だったことを…あの時の…お母様を思い出して……」 アリーナがしゃくりあげながら、それでも懸命に話す言葉に、クリフトは胸が熱くなる。 「姫様…私のピアノなどで…そんなに…」 うまく言葉が続かない。 「…クリフト……ありがとう。…私…ピアノ頑張る。この曲を…弾けるように…なりたいの…」 「姫様…」 クリフトは言葉の代わりに、アリーナを抱きしめた。 忘れていた記憶。 デジャヴ? ううん、お母様よりもっと。 きつく抱きしめられて。 鍵盤をすべるあの白い指にこんな力があったのかしら。 かすかなハーブの香り。 クリフトの背中越しに、もうオレンジの色を消し、月の光を映し出した白いピアノ。 今夜、雪の代わりに星が降ってくる。 神様、ありがとう。 ピアノのレッスン、もうさぼらない。 あなたのためにこの曲を。 来年のクリスマスには、私がこの曲をあなたに。 だから――――。 そのときもきっと抱きしめてね。 |